雑踏、ざわめき、エンジン音、
太陽の光から逃げるように、私はコルカタの街を歩いていた。
NYとは全てが違う、こんなところでブルースは生活してるのか。
もっと都市部だと近代的な建物もあるらしいけれど、ここは、人が身近だ。
帽子をかぶり直し、脱水症状を避けるために一口だけ水を含んで、ゆっくり飲み干す。
彼がいるとされているアパートを目指す。
アパートの下でうろうろしていると、おばさんがベンガル語で早口に何かを言った。
彼の写真を見せて、ゆっくり英語で話しかけると、笑顔で道向かいの小さな建物を指差した。
布で仕切られた部屋をそっと押すと、部屋の中は静かだった。誰もいない。
やっと太陽の光から逃げることができて、肌がしんと冷たくなった。
「・・・ブルース・・?」
そっと軋む床を進むと小さな机に大きな体をうつ伏せにして眠っている、懐かしい背中。
「・・・バナー博士・・?」
そっと、背中に触れると
「っ!」
ガタンっと酷い音を立てて私は床に転がった。
一瞬、何が起こったのか分からなかったけれど、腰につけていたペットボトルがごとん、と床を転がっていく。
「ごめん!驚かせたみたい・・?」
せんせい、と小さく呼んでみる。自分の口から飛び出たその言葉はずいぶんと長いこと口にしていなかった。
彼は慌てたようにきょろきょろとあたりを見回して、それからやっぱり慌てたように私に手を差し伸べる。
「っ・・!」
「ごめんね、驚かせっちゃったね・・」
「何しに、どうして、なんで、あの」
「落ちついて、“先生”」
立ち上がって、少しだけ黙って、それで
「・・・・あの」
「・・・・えっと」
同時に口を開いて、また黙ってしまって。
私は彼に飛び着いた。大きな掌が遠慮がちに背中に回る。
「っ・・あはは、変わってない。よかった!」
「、何しに来たんだい。本当に、どうしてここが分かったんだ?」
「この間、トニー・スタークのプロジェクトに呼ばれて、」
「・・あああ」
「ブルースの話になって」
「・・・もういいよ・・・」
「彼をNYに呼び戻してきてくれ!って」
「断り続けてたのが運のつきかな」
「でも再会できたのは彼のおかげよ!」
ぎゅー、って抱きしめて見上げると、困ったように目じりを下げる。
キスはしてくれないのね、って付け加えるとやっぱり、
「・・・・・・困ったな」
「でも、もう「先生」と「生徒」じゃないわ!」
「だからもっと困ってるんだよ」
私が彼と出会ったときは彼は特別講師で、私は生徒だった。
と言っても、彼は政府から逃げ隠れしていたので名前も経歴も偽っていて、
生活費のためにちょっとした講義をやってくれた謎の先生ってところ。
「先生、私あのトニー・スタークに抜擢されるくらいの科学者になったのよ!」
「それはすごいね」
「もっと褒めてよ」
「良く頑張ったね」
「じゃあキスして」
「それは違うんじゃないかな」
彼は私の肩を掴んで少し距離を取る。
「どうして?」
彼の功績に惹かれて
彼の性格に惹かれて。
「君は賢い子だから、分かるだろう?」
それはきっと緑色の彼の
「分かってるわ。」
彼の素性は全て知ってる。彼の名前だって分かってる。
「先生、5年前に言ったことは変わってない」
「きっとそれは全て知ってしまうと、壊れてしまうよ」
「そんなことないわ。きっと大丈夫、ハルクとも仲良くできる」
「・・・どうかな。」
「先生を救いたい、なんて言ってないの」
「・・・・」
「せんせい、すき、5年経って、貴方の事を調べて、貴方に追いつきたくて、必死で、
他に私に声をかけてくれる人もいたけど、でもやっぱり、せんせいが、すき」
思いつく言葉を次々口から出していく。一緒に。ぱたぱた涙が流れて行く。私の視界には彼の靴しか写ってない。
彼と同じ目線で物が見れるように、背伸びして背伸びして。やっと頑張ってここまで来たのに
彼の前に立ったら、やっぱり生徒に逆戻り
「せんせい、がもし、ほかのじょせいが、すきなら、それはしかたないわ。
恋ってそういうものでしょう?でも。せんせい・・・・っ」
そこまで言って、頬にあてられた温かい手のひらに包まれながら、促されながら、私は涙の向こうの彼を見る。
「・・きみは、ほんとうに・・・」
その続きは、聞こえなかったけれど、温かい抱擁と優しいキスがあったから
きっと聞かなくても分かる。5年前に色あせてしまった恋に、もう一度、鮮やかな色を。