「愚かな」

感情が全く感じられない冷たい声が耳に響いた。
いつもならば直接脳に響くような錯覚を起こすその人物の低い声が今は水中から聞いている様に遠く感じる。
あまりにも身体が重く、動かすのも億劫でやっとのことで首だけを声の主へと向ける。
声の通り、何の感情もうつさない無表情な顔がそこにあった。
端正な顔立ちで、肌は白く、瞳は透き通るような薄いブルー。
いつもその顔を見て、消えてしまいそうだな、と思っていた。

「カーン…何が、ですか?」
「君が、だ」
「何故?」

訊かなくても分かってはいた。何事においても人類よりも優れているこの優生人類とやらであるカーン・ノニエン・シンは
当然のごとく観察力にも優れている訳で。

「ウィルスにより引き起こされる発熱、呼吸器の炎症、目眩、嘔吐感」

目を細め、本人にそのつもりはないかもしれないが些か馬鹿にしたようにも見える表情で淡々と言った。

「えぇ、風邪です」
「ウィルスを撒き散らしに来たのか」
「いいじゃないですか、カーンは風邪なんてひかないでしょうし、ここには私達しかいないんですから、うつす心配ないし」

この巨大な研究室には二人の人間しか存在しない。
表向きカーンはジョン・ハリソンという名で新兵器開発機関であるセクション31に配属されている。
冷凍睡眠状態で宇宙空間を彷徨っていた彼らを見つけ救出したマーカス提督は彼を”隔離”している。
そして”利用”している。”彼ら”と言ったのには理由がある。
先程述べた”二人の人間”と言う言葉は正確に言えば”目覚めている二人の人間”である。
目覚めていない人間も含めればここには冷凍睡眠された彼のクルー72名が存在している。

まぁ、彼らもカーンと同じく優生人類な訳で風邪などがうつることはないだろう。

「風邪などひくとは、か弱い。熱により思考が鈍くなっている君には用などない。
ここへ放り込まれてからただでさえ体力が著しく低下しているのだろう」

空中に映し出された設計図に回路を描き足しながら口角をあげて言う。黙っていれば見惚れそうな表情だというのに。

彼の言う通り、日に日に体力が落ちている。そのせいで風邪のウィルスにも抗えなかったのかもしれない。
この兵器さえ完成すれば私など死んでもいいのだろう。いや消えたほうが都合がいいのだ。
マーカス提督は私をここへ送り込んでからは
あんなにも気にしていた私の健康管理を止めた。カーンとともに葬り去るつもりだろう。

私は商品として作られた人間、所謂クローン人間。それも失敗作ってやつで。
金持ちの代替のパーツだというのに私の臓器ときたら不健康そのものなのだから
どっかで悠々自適に生きている依頼主本人よりもボロボロなのだから。
けれども幸か不幸か脳の発達だけ著しく、IQだけやたらと高かった。
身体が弱いのはそのせいかもしれない。随分と片寄ったものだと思う。
廃棄されそうだったところでマーカス提督に拾われた。彼のことは嫌いだけど、一応、恩人ということになる。

このIQと使い捨ての命のおかげで今ここでカーンの助手をしている。

考えてたよりは色々あって見方によってはかなり面白い人生だったなと思う。
いや正直悪くない。ただ臓器をあげるために産まれて、育って、
頃合いになれば冷凍保存されるか、はたまた強制的に殺されるよりは、ずっと。

「愚かな」

また冷たい声が響いた。最初のよりずっと近くで。気付かない内にカーンが私の座るデスクの側に立っている。
熱のせいでぼんやりとしていたみたいだ。頭全体を覆われたみたいな変な感覚。
だるいけれど嫌いじゃなかったりするこの感覚。目線だけをあげるとカーンの青い眼と視線がぶつかる。

「鼻汁の過剰分泌か」

言っていることがいまいち頭に入ってこなくてただただ間近にあるカーンの顔と
デスクに手をついているのか盛り上がる逞しい肩を見ていると、ティッシュを鼻に押し付けられた。

「世話の焼ける…」

呆れた顔で息を吐き出すその表情は気怠そうで色気があるなと思った。
優生人類というのはルックスも優れているのだろうかとぼんやり考えていたら世界が反転した。

「アシスタントにいなくなられては完成が遅れる。早く休め」
「抱き上げるんだったらもう少し優しく…」
「黙れ。連れて行ってやるだけでもありがたく思え」
「…はーい」

荷物のように肩に担がれて研究室の隅にある寝室へと運ばれる。
揺れる逆さまの景色は見慣れたはずの研究室だと言うのに
なんだか初めて見る世界みたいで新鮮で何故か涙が溢れそうになったけれど、
その世界よりもずっとずっと近くにカーンの背中と腰とお尻があって、急に笑いが込み上げてきた。
ベッドに降ろされると笑っている私を見てカーンは眉間に皺を寄せた。

「…ゆっくり、休め」

そう言って頬に手が触れた。熱をもった身体にその冷たい手は心地よくて、眼を閉じた。
おでこに冷たい感触がして、ちゅ、と小さな小さな音がした。

「おやすみ、…」