ドアベルの音が響いたのは、柔らかな湯気が薬缶から立ち上り始めたのと同時だった。
ハウスは火を止め、その足で玄関へと向かう。
今日、この時間に訪れる訪問者を既に知っていた為に湯を沸かしていたと言ってもだいたい間違いはないだろう。
それは昨日、ウィルソンが嬉しそうにそして一方的に話をしてきたからだが。
どんなに興味のないフリをしてみても、やはり自分は彼女に弱いのだ。それが今、浮き彫りになった訳で。
心を落ち着かせてから扉を開く為に、杖を握らなくなった手を何度か開いたり、閉じたりを繰り返す。
妙な緊張感に包まれているのは意外にも心地よいもので、肩の力をほどよく抜くと目の前の扉を開け放った。
そこには、久しく見ていなかったが荷物とお土産片手に立っていて。
伸びた漆黒の髪、少し大人っぽくなったメイクと服装。
見た目は変わったとしても、やはり纏う雰囲気は何も変わらないから。
記憶の中の姿と合致したことに、何故かハウスは安堵を覚える。見違えるほど変わるとは、到底思っていなかったが。

『お久しぶりです、ハウス先生』

しかし、凛と響く声音と真っ直ぐで大きな黒い瞳も変わっていない。
真っ直ぐとその虹彩を見つめながら、過ぎ去った日々を思い出す。
初めて会った時も、迎え係になった時も、チームが解散した時も、ハウスが入院するとなった時も、
ずっとこの瞳は真っ直ぐにハウスを見ていてくれたのだ。時に泣いて、その目を真っ赤に腫らしたとしても。

「俺はもう、医者をやめたんだ」

溢れてきた想いを胸の奥に押し込めて、を上から下まで眺めた後そう言えば、そういえばそうでしたねと
笑い混じりの声が返ってくる。それは決して、馬鹿にしているわけではないと、
彼女は人を蔑んでいる訳ではないというのは
好奇心で輝いた眼差しでよく分かる。どんなに心情を読みにくい色をしているからといって、それくらいは朝飯前だ。
ハウスはを家に入れると、キッチンへと戻っていく。
そんなハウスの後姿を見ていた彼女は、暫く部屋をキョロキョロと見てから、不意に言葉を零した。

『そのお野菜柄のエプロン、とてもお似合いですね』

精神病院を退院し、医者を辞めてからというもの新しい趣味を見つける為に
ウィルソンと料理教室に通い、今ではすっかり料理上手になって。
その為、色彩鮮やかな野菜が描かれたそのエプロンがよく似合うようになった。
はてさてこれは、誰からの贈り物だっただろうか。ハウスの眉間に皺が寄る。
記憶を確かめるように、手前の棚を思い切り引っ張った。

もつけたらどうだ。もう1着あるぞ」

綺麗に畳まれたままのエプロンが、同じ柄を全面的に押し出したまま長方形の箱の中に納まっている。
嗚呼やはり、誰かからの贈り物だ。
その返事を聞くと、近くの机にお土産と荷物を置いたが台所へと顔を覗かせる。

『では、もう1着のほうをお借りしてもよろしいですか?』

楽しげに笑うその顔にエプロンを押し付けると、まぁ可愛いという呟きが聞こえた。
しかしそれは聞かなかったフリをして、けれどもご機嫌を隠しきれない顔は笑みを浮かべたままで。
何故だか、少し浮ついたようなこの感覚が悪くはなかった。
穏やかな気持ちというはもしかしたら、このことなのかもしれない。
質素な白の丸皿2枚と、不思議な柄が描かれたマグカップを食器棚から引きずり出すと不意に、
昨晩から同じことを何度も繰り返すウィルソンの、ホクホクとした、幸せをかき集めたような笑顔が脳裏を過る。

「ウィルソンの奴、昨日からが持ってくる手作りお菓子を取っておいてくれと散々釘をさしておいて、
今朝になっても同じこと言いながら出掛けて行ったぞ」

思い返してみれば、昨晩から何度言われたことだろう。
少々うんざりするほど言い含められたことを言葉にして吐き出しながら、皿を机に置いた。
それから机に置かれた箱の口を開こうとすれば、も想像がついたのだろう。
こみ上げてくる子どものような笑い声をあげた。
ひとしきり笑ったあと、目尻に溜まった涙をエプロンの裾で拭き取ると、晴れやかな表情のが楽しげに言葉を紡ぐ。

『ウィルソン先生はきっと、蜜柑がお好きなんですよ』

ふっと息を吐くようにもう一度笑ってから、再び思い返したのか華奢な肩を震わせる。よほどツボに入ったらしい。
表情豊かな彼女の、はじけるような笑い声は不快ではなかった。寧ろそれに、幸せのひとかけらを見た気がした。
荷物の中から必要な物を一式取り出すと、その場を改めるようにコホンと咳払いをひとつ。

『今日のお菓子は、蜜柑とローズマリーのミルクレープなので、
先生と一緒に生クリームとジャムを挟んでいきたいと思います』

蜜柑とローズマリーのジャムを片手に微笑んだに、ハウスもおどけて両眉を上げて、
泡立て器とボウルを片手に持つと二人でキッチンに並んだ。