夜も更けてきた頃ベイカー通りの一角にキャブが止まった。
レトロ感溢れるキャブから女性が一人、段ボールを支える手に更に紙袋やら鞄やらを抱えて降りてくる。
彼女は肩にかけた鞄がずり落ちそうになるのを直そうとしたのかよろよろとその場で一回転し、
冷たい空気を一息吸い込みまた歩を進める。
キャブを使うなんて少し贅沢をしてしまったけど
それよりなにより一刻も速くこの重石のように自分を苦しめる資料達をその辺に放ってベッドにダイブしたい。
はぼんやりと疲れきった頭で自分を罵った上司の顔を思いだし一人顔を歪めた。
あと一歩、扉を開ければそこは湿気があるけど安心できる素敵な愛すべき我がフラット。
ふとは動きを止めた。両手の塞がったこの状態でどうやって鍵を回すのか。
そして目の前の扉には見慣れぬ白い紙切れ。
”大事なものは預かった。返して欲しければ221Bに来い。SH”
は涼しげに顎をあげる色白のくるくるパーマの男の顔を思いだし先程以上に顔を歪めた。
彼女の住むフラットの部屋は221Cでありその階上に位置する部屋が221Bでそこに居を構えているSHとは
最近ネット世界や世間を騒がせている話題の探偵、シャーロック・ホームズその人である。
では彼女の大事なものとは何か。
が先程から僅かに感じていた違和感の原因をその白い紙切れが決定的にした。
彼のことは嫌いではないしむしろ好意を抱いていると言っても過言ではないのだが、
いかんせん変わっているのでこういう場合一筋縄ではいかないだろうと必要になるだろう労力を考え、
少しうんざりと溜め息をつき抱えていた大量の資料を床に半ば捨てるように放り、
貼り付けられたメモ用紙を引きちぎるように毟り、疲れきった体に鞭打ち階段をのろのろと昇っていった。
「シャーロックホームズ、私の猫を返して」
開け放たれた221Bの扉を通り抜け一人掛けのソファに腰掛け
何事か思案しているのか目を伏せ顔の前で手を合わせている男に声をかける。
「部屋に入らずに僕が預かっているものが猫だと分かったのか」
ゆっくりと口角を持ち上げ閉じていた目を開き細めてシャーロックはを面白そうにみた。
彼の斜め前に位置するソファからひょこりとの愛猫が顔を出しにゃあと鳴いた。
「私がドアに開ける前にそうやってその子は鳴くもの。疲れてるからはやく寝たいの。
悪いけどあなたの退屈しのぎに付き合ってる時間が惜しいの。返してもらうわ」
「ただ眠るよりいい」
「え?」
猫を抱き上げようと一歩動いたに一言呟きすっと滑らかな物腰で
シャーロックは彼女の腰に手をかけそっとエスコートするようにキッチンへと導いた。
「…わぁ…なにこれ」
「少し時間が遅いが夕食もまだだろう」
「シャーロックが…作るわけないか」
いつもは実験道具などで散らかり放題のダイニングテーブルは珍しく本来の役割を果たしており、
そこには慎ましいながらもとても美味しそうな料理達がいまかいまかと食べられるのを待っていた。
この他人にあまり興味を持たない男が自分の好みを把握しているのかと驚いただったが
君のために用意したと恥ずかしげもなく言う目の前の男にさらに驚き、
何か魂胆があるのではないかと訝しげに見上げるが彼の言う通り夕食どころか昼食も満足に摂れず
目の前の色合いや香りに抗えなくなり素直に頂くことにした。
シャーロックは正面に座りコーヒーを飲みながらが食事をするのをただじっと興味深げに見ていた。
一通り食べ終わる頃になるとちょうど良いタイミングで紅茶が差し出された。
「ハーブティーだ。俗に言うリラックス効果があり疲れが取れる」
「一体何を企んでいるの。シャーロックホームズ」
至れり尽くせりのこの状況は酷く心地のいいものだったがそれと同時に酷く不安感を伴う、
そんな矛盾が渦巻く自分の胸中にたまらずは尋ねる。
「…食後には君の好きなナッツの入ったアイスもある」
「シャーロック。話を逸らさないで。どういうことなの?」
「…ジョンが…」
「ジョン?」
「ジョンがそれは恋だと言った。有り得ないと言ったが様々な状況がそうだと指し示していた。
脈拍が速まるのは自分でも感じていたし、何かの防衛本能かとも思ったがそれも違ったようだ。
ならば間違いないという結論に至った。ジョンが好きなら好きになってもらえるように努力するべきだと。
嫌われるのは嫌だろうと。想像したみただけで君に嫌われるというのは…酷い苦しみだった」
あぁ、なんて不思議な人なんだろう。こんな人は世界に二人といないだろう。
好きと言われたことよりもその思考や人に対する接し方の不器用さには心を揺らされ、
目の前で少し眉を寄せどこか不安気に瞳を揺らしている男を酷く愛おしく感じた。
たまらずそっと髪に触れその眉間と長い睫毛に僅かに触れるだけの口付けを落とした。
「じゃあ!テリー観ながら一緒にアイス食べましょ。私のためにくだらないテリー観ていられたらその恋、信じてあげます」
「…ずっとか?」
「今日、アイス食べ終わるまででいいから」
「…わかった」
そう言ってシャーロックはに手を引かれ並んでソファに座り込むと
それまでソファで丸くなっていた猫がひとつ伸びをしての足下に駆け寄り身を擦り寄せ
くるくるとまわるとしなやかに彼女の膝に飛び乗りまた身を縮めて丸くなった。
くだらない番組に形だけ目線を投げ寝ている猫を睨んだりしていたが、
自分のすぐ側から時折聞こえてくるくすくすという笑い声に鼓膜を揺らされ、
それとともにたまに触れ合う肌の体温の高さにシャーロックは
自分の脈拍が酷く速く強くなっているのを感じて落ち着かなかった。
自分は病気なのではないかと一瞬考えが浮かんだときにふわりと二の腕に重みを感じた。
”スキンシップは愛情の顕れ。女性の方から触れるのはオッケーのサイン”
というジョンの言葉が突如シャーロックの脳裏によぎった。
自分にもたれ掛かってくる。気持ちを伝えた直後のこの行動の意味を考え、
彼は先程の口付けを自分からしようと意を決し
そっと彼女の背に手を添えるようにまわし、焦りからか勢いよくを振り返った。
カタンと音を立ててスプーンが床に落ちる。
シャーロックの肩ががくりと落ちる。
すやすやと寝息を立てるの膝でのんびりと眠る小さな生き物に目をやると、
目を開きチラリと横目でシャーロックを見て勝ち誇ったようににゃあと一声鳴いた。