「シャーロック、」
「・・・・・なんだ」

僕のベッドの上で転がっていたが雑誌を閉じて突然、ぽつりとつぶやくように僕の名前を呼んだ。
ひとりごとかと思って放っておいてもよかったが、
なんとなく、の声が空気中に溶け込んで、誰も返事をしない事実に、少しばかり寂しさを感じ仕方なく返事をする。

「デートしよう」

の目線は何処を追っているのかわからなかったが、僕を見つめていないことは確かだった。
僕は机にいくつかの論文を開いて読んでいたし、彼女はそれについて何も言わず、ベッドの上に転がっていただけだった。
の発想はいつも突拍子もない。僕でもマイクロフトでもきっと予想はつかない。
僕は手元の論文に目線を戻し、彼女の行き場のない訴えに応える。

「デート?」
「うん、水族館行きたい。英国博物館でもいいよ、映画でも、いいよ」
「なぜ」
「外に出たいから」
「一人で行けばいい」
「それデートにならないじゃない」
「僕はやることがある。」
「じゃあ別れる」

どんな話の流れだったのか。
僕は思わず振り返った。は相変わらず何処か空中を眺めている。

「そ、んな流れじゃなかったはずだ。」
「だって、考えてみたら私、シャーロックから好きって言われてないもん。セックスしただけ。しかも一回。これじゃあただの」
「・・・ただの?」
「体目当てだったのねーって事。」
「不道徳的だな。」
「不道徳的ね。」
「言葉が必要なんて、女は面倒だ」
「だから別れる」
「別れるも何も」

『別れるも何も付き合っていない』と言いかけて僕は口を閉ざした。
それを言えばはきっと、立ちあがって鞄を持って、家を出て行く。
そして一生、ここには立ち寄らないし、きっと大学でも、会わない。きっと。そうなる。
は、いつの間にか僕の顔を見つめていた。

「なに?」
「・・・・・・・・・・・いや、何でもない」
「そ」

僕は論文を閉じて、ジャケットに手を伸ばした。
その様子をは、ベッドから眺める。

「何処へ行く。」
「水族館!!!」

一瞬で、瞳に星が散った。まるで子供みたいだ。
にこにこと笑いながら鞄を持って、部屋を出る。
行き先を使用人に適当に伝えて、屋敷を出て、水族館へ。
大体、どこにあるのか分からないのに、彼女は電車も駅も既に把握してた。
まるで、行く準備をしていたかのように。

水族館では平日だったのも手伝って、人はまばら。
はぐれるわけでもないのに、は僕の手を握った。
にこにこと笑いながら、はしゃぐを横目に、何が楽しいのかよくわからない。
水族館とは生きる標本を飾る博物館だから、知識の宝庫だ。
僕にとっても、興味深い時間ではある。

彼女は、何度も何度も僕の名前を呼ぶ。シャーロック、シャーロックと。
僕は彼女の指差す先を見、彼女の質問に答え、興味がうつって歩いて行く彼女について行く。
シャーロック、シャーロック、アレ何、ねぇ。あの色すごいね、着色したみたい、
次々に彼女の口から彼女の声を通して紡がれる言葉は僕の耳を通して僕の心へ届く。
次のフロアに入ると、筒状の水槽がいくつもならんでいた。辺りは薄暗い。クラゲの展示会場らしい。
は、囁くように僕を呼ぶ

「シャーロック、きれいだね」

寂しそうに見えた。きっと薄暗いせいだ。でも、きっと僕の感情も手伝ったから、そう見えたんだ。
僕らの関係はあまりにも不安定だった。曖昧で、不透明だ。は、僕を待っている。
立ち止って、僕の感情が、心が追いつくのを、待っている。
人は僕には心がないと言う。彼女は、僕が無くしたものを、僕自身が見つけるのを、待っているんだ。
でも、それは先の見えない、不安しかない。
そこまで思考して、このデートとやらの意味が分かった。
無性に、寂しくなったんだ
大学でも、僕の家でも、彼女は僕を待っている。
顕微鏡を覗いていても、本を読んでいても、彼女は、僕を、待ち続ける。いつだって。
僕は彼女の声を聞いて、彼女の表情を見て、彼女が触れる温かさを感じるが、
彼女は、僕の背中と小さな言葉しか、みていない。



その姿が、考えて見るとあまりにも滑稽で、切ない。
そして、また愛おしい。

「んっ・・・・・」

ずいぶんと身長の低い彼女に、僕がキスするのは困難だ。
腰を引きあげて唇を合わせれば、彼女が舐めていたレモンのキャンディが舌先に当たった。

「っ・・・・シャロ、ここ、外」
「・・・・・・分かってる」
「なんでこんな!もう!!」

薄暗闇で見た、赤面した彼女に、どうしようもない、嬉しさを感じる。
きっとこれが恋で、抱きしめたいと思う衝動が愛か
相変わらずよくわからない感情だ。

小走りで出口に向かうを追いかける。
彼女の背中は、あんなに小さいものだっただろうか。
口内でレモンキャンディがからりと音を立てて砕けた。