シャンデリアの下で、栗色の髪が、ふわりと揺れて、
深紅の唇が、小さく笑みをつくって、下種な男の前で、笑っている。
きっとあの唇から、鈴の鳴るような声が紡ぎだされていることだろう。
バルコニーから彼女を眺めて、もう一度、煙草の灰を落として、一服。
全てが偽りと知っているのに、あのブラウンの瞳に、引き込まれるように
目が離せない。彼女の体のラインをおしみなく表す濃紺のドレスも
盗聴器が仕込まれているイヤリングも、結局は彼女をひきたてる道具でしかない。
太った男が、に寄り添った。虫唾が走る。彼女の腰をつかんで耳元へ顔を寄せる。
彼女は困ったように笑いながら距離を取ろうと、ふわふわ笑う。
スーツのポケットへ盗聴器を放りこんで、彼女は俺の方を見て、合図した。
右手に小さな痛みが生じて、見れば、煙草の小さな炎が指先まで迫っていた。
パーティー会場の中へ、彼女だけを目指して歩く。

「夫です」

男から離れて俺のそばに立つ
男は、それでも笑っていた、恐らく指輪も確認したうえでの、行為だったんだろう。
俺は笑いながら彼と握手を交わしながら、の腰に手を回す。彼女もそれに従うようにそばに立った。

「それでは、楽しい時間をありがとうございました。そろそろ私たちは、」

彼女が会釈してバックを取って会場から出て行こうとする。
俺も小さくあいさつして、彼女の後を追おうとしたら、あの男からささやかれた
『たまらないだろうな』と。表情が追いつかない。計画では証拠を押さえ次第、殺していいと言われているが
今、殺したい。

「クリス、どうしたの?」

が振り返って、笑った。笑顔の裏には任務遂行中だ、という彼女の制止が含まれていた。
俺は曖昧に笑って、パーティー会場を後にした

+++++

エレベーターは最上階を目指す。
あの男が泊っているのと同じ階に部屋を取った。

「一瞬、すごい顔してたわよ。」
「・・・・・」
「人間の無表情って怖いわね」
「べたべた触らせるからだろう。」
「あら、私のために怒ってくれてたの?驚いた。貴方の女でもなんでもないわよ」
「分かってる。」
「でもあの男が死ぬまでは、私の旦那さまね」
「じゃあ、少し感謝しなきゃな」
「あはは、・・・あーあ。いやだいやだ。早くシャワー浴びてドレス燃やしたい。
べたべた触って、あのコロン最悪。」
「そのドレスは税金から払われてる。」
「私たちが今から入る部屋も、税金で支払われてるわ。」

が俺を見上げて、俺もに目線を合わせたところで、
チン、とエレベーターが目的の階へついたことを教えてくれた。
彼女は小さく背伸びして俺の頬にキスを一つ。

「怒らないで頂戴ピーター」
「任務中だ」
「怒らないで頂戴クリス」
「結構」

エレベーターを降りて、俺に体を寄せて歩くのも
小さく笑うのも、世間話をするのも、優しくキスするのも、全部、偽りだ。
分かってる、分かってる。分かってるんだ。

「すごーい。任務じゃなきゃ楽しめたのに!」

ぼすん、とベッドに寝転ぶ
栗色の髪が、白いシーツの波に広がっていく。
このまま、押さえつけて、白い肌に赤い跡を残してやろうか。

「任務じゃなきゃ、泊れない。」
「嫌なこと言わないでー」
「シャワー浴びるんじゃなかったのか」
「浴びるーあ、一緒に浴びる?」
「ゲホッ・・・何言ってるんだ!」
「本気にしたでしょ、若造君。だめね、そんなんじゃ、ハニートラップ引っかかっちゃうわよ」

パンプスを脱いで裸足でバスルームへ消えていくを見送って、
君だから、動揺するんだ、と小さく付け加えた。

++++

明け方、お互いにもう眠気も通り過ぎて目が冴えてきた時間に
ターゲットがある男と通話している記録がとれた。
目の前のソファに、ゆったり腰掛けていたブロンドの男は小さく笑って
また煙草を口に運んだ。灰皿の煙草は、山のようになっていた。
任務が終われば、うちの職員がここへきて、髪の毛一本残さず掃除するんだけど
でもその量は少しかわいそうだと思うわ。
盗聴器が拾う音。彼はどうやらベッドへ横たわったようだ。
私とピーターは目配せして銃の最終点検を行う。
私たちの偽りの夫婦劇にもうすぐ幕が下りてしまう。
惜しい、嫌だな。嘘だと分かっていても、彼が笑うのも、私の言葉に応えるのも
世間話も、優しい体温も、全部全部、夢見た光景だ。
足音と気配を殺して、ターゲットの部屋の前へたどり着く。
監視カメラには、あらかじめ細工を施しておいた。

ベッドの上で慌てる男。醜い、酷いありさまだ。
私が銃口を向けたら、彼が小さく止めた。

「俺が、」

別にどちらが始末しても構わないのだけど、彼がこんなことを言うのは初めてかもしれない。
良いよ、と言った後、サイレンサー独特の音がして、騒ぐ声の主は静かになった。

「任務終了、帰還します」

通信機を切る前に、本部へ連絡を入れておく。
ぷち、通信機を切って、後始末して、部屋を出る。
任務で借りたスイートに戻ってバッグに荷物を詰めて、
チェックアウトの時間を待つ。ここで早く出てしまったら、疑われる。
あくまでも、自然に、一般人のルールに従って。

「お疲れ様、ピーター」
「ああ。」
「帰ったら熱いお風呂に入りたい。」
「ああ。」
「ねぇ聞いてる?ピーター?」
「・・・・」

くるり、と窓の外を眺めていた彼が薄暗闇の中で動いた。
薄暗闇って言ったって、目を凝らさなくても、分かる程度だけれど。
ちゅ、ブロンドが近づいてきて、遠ざかった。
私たちは何も言わなかった。
同僚といえど、スパイに、恋は、必要ない。
偽りといえど、夢を見た。
彼のお気に入りの煙草の香りが鼻孔をくすぐった。