用意された婚約者になる少女が決まったと聞いたとき、
正直言って、どうでもいいと思ったのを良く覚えている。
人間と結婚することは初めから決まっていて、
何処の一族から私の妻が選ばれるか見当はついていて、
自分が人間の世界とこちら側の中心に立つことも決まっていた。
だから、どうでもよかった。写真も名前も映像と記号として覚えて彼女に会った。
「行ってくる」
「はぁい。行ってらっしゃい」
だから、こうしてわざわざ朝、玄関を開ける前に
明らかに眠そうな体を叩き起こして、私を見送るが愛おしいと感じるような事は
当時、絶対にあり得ないと思っていた。
全ては契約、全ては見せかけ。
そう、思っていたのに
「はやくかえってきて」
「ああ、勿論」
彼女は、毎日、ぼんやりした瞳でこう言う。
日付が変わってもリビングで私の帰りを待ち、朝になれば無理やり起きて私の背中を見送る。
結婚した当初、彼女はそれこそ泣きながら、怒りながら必死に寂しいと訴えていたのに。
彼女の叶えてやれない願いを聞いて、しかし自分でどうすることもできない憤りを感じていたのに。
今となっては、彼女のわがままはこの一言だけだ。
「早く帰ってきて」
一緒に過ごしたいとも言わなくなった。
せめて食事をとも言わなくなった。
他に女性がいるの、と不安を口にすることも
私の事が嫌いになったのかと問いかけることも
はもうしない。
一緒に過ごせないことも、食事さえ、共に出来ることが少ないことも
他に女性がいないことも、全て、分かっているからだ。
・・・・・・いいや、最初から、分かっていた。
彼女は聡い女性だ。最初から分かっていたが、不安をぶつけなければ
孤独を余計に感じて、必死だった。
私は、彼女に孤独でいることも、不安を抱えることにも慣れさせてしまったようだ。
目の前に並べられた書類を眺めながら、一瞬も彼女の顔がよぎらない自分に異常性を感じて、呆れて笑う。
++++
「アンシア、午後の予定は?」
「・・・・空いておりますわ、Sir」
「・・・・・なんだって?」
思わず聞き返した。
大抵、予定が入っていなくとも、誰かがどこかで会議をしていれば、
その会議が終わった後、話をするためにクラブで時間をつぶす毎日。
「ですから、空いております。」
「・・・・・・・・に連絡を・・・いや、いい。車を回させて彼女を連れてきてくれ」
「かしこまりました」
「国の危機以外は、連絡も」
「控えます」
頭を下げて手配する部下の背中を見送って、残りの時間を彼女に捧げるために、もう一度椅子に座りなおした。
++++
10分もしないうちにドアがノックされた。
きょとんとした顔のが中へ通される。
「あの、パーティーにでも出席するの?私、新しいドレス用意してないわ」
慌てた様子で喋り出す。
急きょ、パートナーが必要な催しに出席しなければならないと思ったらしい。
「違うよ。。出かけるんだ」
「どこへ?」
「秘密だよ。おいで」
「お仕事は?」
「これが仕事だ」
彼女の手をひいて、政府を後にする。
空の車の助手席に、彼女を座らせて、私は、運転席に座った
「マイクロフトが運転するの?」
「そうだが、何か?」
「運転・・・できるの?」
「できるさ。」
「教習所に通ったの?」
「いい生徒だったからね」
エンジンをかけて、車はゆっくりと走りだす。
自分でハンドルを握るのはそれなりに久しぶりだったが、それなりに、体が覚えていた。
「何処へ行くの?」
「秘密だよ」
「でもお仕事でしょう?」
「そうだよ」
不安そうな顔で彼女は私の顔を見る。
きっと、脳内では誰かと会うには適していない服装だ、とか
私の妻らしい会話内容をサルベージしたりだとか
そんなことを必死に考えているのだろう
ロンドンの郊外へ車は進む。
「マイクロフト、ねぇ何処へ行くの」
「君が知らない場所」
「何処?」
「秘密だ」
それから、彼女はせめて、この二人っきりの空間を楽しもうとスイッチを切り替えたらしい。
いつもしないような話を始めた。
私の本棚にある本はほとんど呼んだけれど、いくつか人間の言語じゃない物がまじってたとか
最近は動物の動画を見るのにはまっているとか。
きっと、本来なら、私が毎日彼女から聞くべき話を、楽しそうに、話はじめた。
緩やかに進む車の中で、の瞼が落ちるまで、その声は止まらなかった。
++++
「・・」
「っ!・・・マイクロフト・・・・やだ・・私、寝ちゃったのね」
「構わない。おいで」
目的地に着いた時にはもう暗くなっていた。
だが、そもそもこの時間に着くように計算して出てきたのだから、丁度いい。
森の入口の辺りに車を止める。暗闇の中をざくざくと歩いていく。
は、不安そうに私の後ろをついて来た。
「っ・・・!」
ざっと場所が開けると、そこには森に囲まれた小さな湖があった。
「すごい・…!綺麗・・・」
月明かりに照らされて湖が浮かび上がる。
「まるで、空から切り離したみたい」
彼女は夜空を見上げて驚嘆の声を上げた。
「ねぇ、そろそろ種明かしして。お仕事って言ったのに」
「仕事だよ、私の仕事は、イギリス政府と我々の世界を上手い具合に調整すること。
それから、君の夫であることだ」
「・・・」
「片方は上手く言っていたがね、もう片方はずいぶんとおろそかにしてきた。」
「でも、」
「・・・・楽しんでもらえなかったかな」
「そんなことない!」
腕の中に飛び込んできた彼女は、こんなにも小さかっただろうか。
こんなに、頼りない腕をしていただろうか。
頬の色は、声は、髪は。
毎日会っているのに、いつからこんな感覚を覚えるようになったんだ。
の瞳から涙が落ちる。
それの理由を、私は語らすわけにはいかない。
「、あそこに屋敷が見えるだろう?」
「・・・・うん」
「あそこはホームズ家の別荘だ」
「・・・・・そうなの?」
「ここなら、人間じゃなくても羽を伸ばせる。昔は避暑でよく訪れた。」
「シャーロックも?」
「ああ。そうだ」
「そうなんだ」
「今年の夏は、必ず休暇を取る。遠くへ旅行には行けないが、ここへ避暑に来よう」
「・・・・・・・ほんと?」
「本当だ」
彼女はもう一度、ぎゅうと私に抱きついた。
私もそれに答えるように小さな体を壊さないように抱き寄せる。
「しばらくしたら食事に行こう。コックが生きていれば、食事が取れる」
「生きていればって?」
「恐らく、生きていれば100歳は越えている」
「・・・・生きてるかな?」
「まぁ。彼らはずいぶん長寿だから。きっと生きているだろう」
でも、まだもう少し。
草の上に座って、彼女が私の腕を離すまで
私は、の隣に。
これからも、ずっと。