たとえば書類にミスを見つけた時、同じスピードで確認していたのがぴたりと止まって
ミスした書類に丸をつけて、その書類を提出した人の名前を確認する。
そして、眉間によった皺がさらに濃くなる。
小さくため息をついた。僕は口角が上がる。彼女が小走りで僕の元へやってきた。
「Q?わざとかしら、私がまとめる書類は何故かミスがあって、それも全部、貴方が作ったものなんだけど」
「さんが気になってミスするんですよ。貴方のせいです」
「怒るよ?」
「だったらちゃんと、僕と向き合って下さいよ」
「向き合ってるよ?」
「じゃあもう少しステップアップしましょうよ」
「この書類書き直してくれたらね。」
「ほんとですか?こないだも残業したらとか言われたような」
「お仕事して下さい!」
たとえばお昼が終わってから午後最初の仕事。
パソコンの前に座って膨大なデータを整理する。瞼が落ちそうになって
落ちて、またぱちっと瞼を上げて。
髪の毛をくくり直すのはさんが眠い時によくする動作。
そして僕の視線に気づいた。
彼女はカタカタとキーボードをたたく。すると僕の画面にskypの起動音と共にチャット画面が表示される。
『仕事しろ!』『してますよ。』『ストーカーで訴えるよ!』『彼氏をですか?』
『仕事しない彼氏はいらないです!』『さんが嘘つくからですよ』
『嘘?ついてないもん』『可愛子ぶる歳じゃないでしょうに』『やめてよ・・もう、いい子だから仕事して!』
『じゃあ今夜デートしてくれますか』『・・・・・・・・・』『ねぇ。』『分かったわよ』
ここ2週間に及ぶ彼女に対するボイコットが実を結んだ午後だった。
+++
食事に行って、そのあと軽く飲んで、お互いほろ酔いぐらいでロンドンの街並みを歩く。
仕事の話とか、同僚の話とか、兄の話とか、彼女が話す言葉に頷いて
彼女が聞く言葉に応えてたけれど、緩やかに感じる重みと体温で
僕自身は、それどころじゃなかったんだけど。
「ウィル?私、こっちだから」
「寄っていきませんか?コーヒーくらい、出しますよ」
「・・・・・ウィル?」
「だ、から。あの。」
いざという時に言葉が出て来ない。
フラットの玄関で立ち止まって彼女の腕を離せずにいる。
一度、彼女の家に行ったことがあった。
酔ったから、と言って押しかけて、酷いことをした。
自分の気持ちを吐き出して、ソファに押さえつけて、キスして、噛みついて。
最低な事をしたのに、あの晩彼女は、笑って許してくれて
抱きしめて眠ってくれた。次の日も次の日も。そして今も。
事実、未遂だったけれど、暗闇の中で彼女の表情は見たこともないくらい
震えて、恐怖に満ちた顔だった。あれは、裏切られた人がする顔だった。
思いだして、腕を離す。このまま、部屋に上げて、暴走しないとは言えない。
なれない感情に振り回される。
「い、え。なんでもないです。おやすみなさい」
「寄ってく。」
「いいです。」
「朝は積極的だったのにね。どうしたのかな?」
酔った表情でにこりと笑う。彼女は僕の腕をつかんで玄関のドアを押した
「・・・やめてください!僕は、貴方を失いたくないんです。いいです、今のままで
朝、貴方をからかって、貴方に褒められて、怒られて、それでいいんです。」
「でもそれでいいって思い続けてたら自分の感情コントロールできなくなった結果が、こないだの夜でしょう?」
どきん、と心臓が高鳴る。当たり前だ、忘れてる訳がない。
忘れていて欲しいと思っていただけだ。事実は変わらない。
「ひどい、事をしました」
「うん。酷かったね」
「さん」
「なぁに。」
「なんで、そんなに優しいんですか。」
「私はウィルが大好きだからだよ?ウィルは?」
+++
そのあとどうやって上まで上がってきたのか覚えてない。
エレベーターにのって噛みつくみたいにキスして、いろんなところをぶつけながら何とか部屋まで上がってきた。
がたん、と玄関先で押し倒してキスする。肌に触れる。
「は、んっ・・ちょっ・・・うぃるっ・・んっ」
「なんですかっ」
「ベッドがいい・・・っ」
自然と出た舌うちと共に彼女を担ぎあげて乱暴に寝室のドアを蹴破る。
「ウィル、女の子担ぎあげたりできたんだ。」
「僕だって男ですよ!」
「だって細いし。」
「さん本当に、第一線で戦ってたんですか?軽かったですけど」
「最近、デスクワークで筋肉が・・・」
ぼすん、とキングサイズのベッドに放り投げる。
彼女は終始きゃーきゃーと嘘くさい声を上げて笑っていた。
ベッドに散った髪に、思わず手が止まった。
「ウィルは意気地なしね。ヘタレ君だわ」
「そんなこと・・っ」
引き寄せられて今度は彼女にキスされる。
ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音が続いて手が自然と動いた。彼女の肌は思っていたより冷たい。
小さな、息を止める声が耳元で僕を誘惑する。
やめてほしい、こっちはあまり余裕もない。
シャツを脱がして素肌に触れる。細かな消えない傷が、彼女が戦っていた証拠のように暗闇でも
しっかり感じ取れる。絹のように、とは言えない肌だったけど、これが彼女の存在理由だったんだ。
「ね、だいすきよっ・・うぃる」
「僕だって好きですよ。初めてです。振り回されっぱなしで」
「ひゃっ・・・ん・・っ・・・っ・・まってっ・・もうちょっと・・ねぇっ」
「待てません。どれだけ待ったと思ってるんですか。僕はずいぶんと執念深い男だったようです」
「ふぁっ・・だからっ・・んっ・・」
「お願いですから、他の男を好きになったりしないでくださいね。今度こそ、何するか分かりませんよ。」
「んっ・・やぁ・・あっ・・あ・・ん」
「聞いてますか?」
暗闇の中で、必死に抱きつく彼女の体を抱きしめて、体に触れて、キスして、跡を残して、聞いたことない声を聞いて
「んっ・・・・うぃるっ・・おねがっ・・やっ・・」
「さん」
「ひゃぁぁぁっ!!」
「大好きですっ」
きゅう、と締め付けられる感覚に追われて、体が震えた。
は、は、と小さく息を切らす彼女にどうしようもなく愛しさを感じて心臓が締め付けられる、とはこのことかと思う。
見下ろしていた彼女は、笑っていた。舌足らずな声で僕の名前を呼んで、頭を撫でてくれる。
「うぃる、こそ、私の事、飽きちゃうかもね」
「そんなことないですよ!なんでですか!」
「歳上だもん。すぐおばさんになって、おばあちゃんになっちゃうわ」
「じゃあさんがおばあちゃんになったら、仕事を辞めて別荘を買って二人で住みましょうね。」
「私、花は好きだけど、ガーデニングは嫌いなの。」
「じゃあ僕がするんですか?」
ころん、と彼女の隣に寝そべる。
抱き寄せると嬉しそうにすり寄ってくるさんに僕もすり寄る。
二人そろって猫のようだ。
「でも、今はもっと大事なことがありますよ」
「んー?なぁに?」
「そんな不安さえ考えられなくしてあげます。」
「・・・・・え?」
「あれ?一回で終わると思ってたんですか?」
シーツに器用にくるまりながら僕から距離を取っていくさんを捕まえて、
夜明けまで彼女の声を聞き続けた。